Que voz feio(醜い声)

by eriyori on Thursday 1 March 2012




ことしもメディア芸術祭の季節がやってきた。毎年たのしみで見に行くのだが、ことしは展示自体が見やすくなっていた。これまで、音や光などが交錯するよう配置され賑わいが演出されていたように思うが、ことしは各作品の個性を尊重し、壁により個々を隔離することで、大事に展示されていたように思う。

アート部門大賞となった「Que voz feio(醜い声)」には、魅せられた。ひとつのブローチを巡る二人の、相容れない双子の主張を、同時に聞くという行為を強いられる。矛盾するふたつの事柄を、同時に理解しようとすることによる錯覚と同時に、この作品に強く感じるのは、現実ではあり得ない第三者の視点を、わたしたちに提供していることにある。話者に徹底して一方的に語らせることにより、対話者の存在を消し去り、語りの場面では一切の環境も消し去ることで、あたかも我々が直接対面しているような感覚を感じる。身の上話は、話者の人生の勝手な妄想をふくらませる(日系ブラジル人であることも、その妄想を助長させるのだ!)。そして、この話者の真面目な面持ちと、われわれが気づいてしまう矛盾、われわれしか今気付けない矛盾にたいして、なにか知ってしまったという気持ちを持つのである。

しかし、この第三者の視点を持つことが出来るもう一人の人物に、すぐ思い当たる。この話を二人に話し聞かせた人物でもある、母親である。その途端、母親の気持ちを探るようになっていく。その謎が解ける前に、二人の話はおわり部屋の風景となる。そして、数ある二人の差異を見せつけられるように画面は流れるが、唯一共通のものをもつ。それは、二人での写った写真でもない。笑った母のポートレートである。作者のうすら笑いが聞こえるようなきがした。