やぶにらみの暴君を研究室で見てみた。いまこの作品は『王と鳥』として世の中に出ているが、この作品はそのオリジナルである。(今、この映像は貴重らしい。見たい人は言ってください。)
しかし、一概にオリジナルとも言えない作品であるらしい。それは、この作品の成立過程にある。監督であるポールグリモーは、この作品にあまりの年月をかけすぎてしまい、プロデューサーであるアンドレ・サリュによって勝手に決着をつけられ、世に送り出されてしまったらしい。過剰な音の表現も付され。
映画の論評なんて出来ないので書かないけれど。
下層の民衆などの表現が実に生々しく、社会のヒエラルキーが痛々しいほどに表現されている。『王と鳥』では表現が許されたんだろうか??目の見えない登場人物が結構キーパーソンなのだけれど、そうゆうのって差別表現になってしまう世の中だものね。主人公であるwonderbird。彼が、獅子にする演説。そして、立ち上がる獣たち。さぞ、立派な演説なんだろう。けど、英語が聞き取れない。
『王と鳥』を見て、日本語読むかな。
それにしても分からないことばっかの映画だったなぁ。。ネットで色々な解釈を読んだけど、なんとなく間違ってるような印象のものばかり。
解釈だと小説も否定してるけど、原作者否定って如何なものか、、、ネットでも論じられてるけど、作中の中のHALとの対決をどう捕らえるかがポイントになりそうだよね。まぁ語れるほど理解できてないからな。ただ、映画に説明が無さ過ぎて、これじゃ正解へはたどり着けなさそう。でもそれも意図しているとしたら、そうとう観客に投げてる作品だな。ほかのキューブリック作品もみてみよう。
でも、宇宙感みたいなものが既成のものとは違い(むしろこの映画自体古いものなのだから、宇宙の「既成」概念でいえば、この映画は、むしろ古典に当たるのかもしれないが)新たな宇宙感を持った。
ちょっとだけ、ネットで語られていない(かもしれない)ことをひとつ。
最後に行き着く、部屋。これがヴィクトリアンであったことに興味を抱いた。ヴィクトリアンは、自らを規則に縛り付ける。SMの快感だな。他人のヴィクトリアンの強制は地獄。神の裁きを受け地獄に落ちたことの投影なんじゃないかなってね。
ただ、作中のアイテムはどれも自分好みのプラなデザイン
とりあえずパソコンの名前はHAL9000にしました
古い無声映画を見ながら、チャップリンとノッポさんが同時に頭に浮かんだ。ノッポさんが喋ったこと、チャップリンが喋ったことは同義の出来事だろうかというひとつの疑問である。
チャップリンは周知のとおり喜劇王と呼ばれていたが、これも周知のように喋らない。言葉で笑わすのではなく、体で笑わす。当時の技術の問題で、言葉の使用が制限されていたからこそ、体表現が研鑽されていったのだろう。
では、ノッポさんはどうだろう。ノッポさんは僕らがタイムリーで見ていたという事実から分かるように当然声表現は使える状況にあった。それなのに彼が言葉を使わなかったのは、日本人のイメージ、日本人が持っている日本人のイメージからだと考える。ノッポさんは、僕たちに工作を教えてくれる、 つまりは職人だ。「日本の職人たるもの寡黙でなければならない。」そんなイメージがあのノッポさんという偶像を作り出したのだろう。
というわけで、チャップリンとノッポさんは違う。
だって、言いたいことは全部ごん太君が話してくれるもの、、、
チャップリンが話したという事実は、技術の進歩の現れであると同時に、何かが失われた虚脱感をもたらす。
ネットはそもそもカオスな世界のため情報が散逸、また重複しがちな世界である。そのため、貴重な情報は誰かによって取りまとめられなければ、沈んでいってしまう恐れがある。逆に誰かによって体系的に纏め上げられればその情報は大きな価値を持つことにもなる。情報がいい点は、物質性がないから、誰しもが同時にその情報に対してアクセス可能な点にある。複製も可能であるし、改造も加えられる。
本来はそれを規制するために著作権が定められているのだが、著作権はいつかフリーになる。2009年を迎えたいま、数々の著作、映像、音楽が著作権フリーとなっている。これら情報は当然のようにデジタルデータ化され、ネットに流されているのであるが、最初に述べたようにカオスな状態でしか存在していない。それゆえに活用しがたいどころか、むしろアクセスの困難さも生じている。
このような、情報を取りまとめているサイトがある。
Internet Archiveがそれである。ここでは、さまざまな情報がアーカイブ化され、誰でもアクセスできる状態にある。世界中のだれもが共通の本棚をもっているようなものである。それに世界的にみても貴重な情報が流れているのも特徴だ。youtubeなどは、市民レベルでの映像が流れている。それはそれで大変おもしろい。しかしこのインターネットアーカイブで流されている情報は、世界を揺るがした事件映像から、当時革新的な映像表現であると目されたものまで普通に流されている。
youtubeのようなホームビデオから、internetarchiveのような「映像」がフリーという共通項を持ちつつ並存しているインターネットの世界は、情報の価値を倒錯させるなぁ。
買ってしまった(笑)
買ったのはlenovoの「ideapad s10」 アメリカからの個人輸入です。円高の今だからこそと思い。アマゾンから思い切って購入。3万6千円+輸送代7000円で4万3000円安いよね。
ということで今まで以上にモバイリーな自分になれたので、ネットに生きることができそうです。
http://www.viniciusmartins.eng.br/blog/2008/11/09/geotagging-post-4-sincronia-com-rotas-gravadas/
このブログの目的もそうだが、どのようにこの情報と現実を結び付けていくか。これが自分の夢である。データベースのこれからのあり方という問題が、僕が所属するゼミでもこれから議論されていくようで、自分なりに考えて見た、というより探して見た。
ゼミにおける民家調査の際、多くの写真を撮る。ゼミに参加する一人ひとりが取るし、それに片っ端から興味の赴くままにかくのだからその数は膨大なものである。それら写真は、日付のみでファイルに分けられ多くの写真はその画像のファイル名によってソートされている。つまり、日付、メーカ、写真を撮影した順に並んでいるのである。では、民家調査において重要な点は時間軸であろうか。もちろん時間軸は、移動経路を換算するにはいいソートかもしれないが、オープンデータベースとして後悔されることにでもなれば、それはただ、当事者間と閲覧者の情報認識のズレを生み出す要因でしかない。
民家調査など、土地の調査において、必要な情報gあひとつ欠落している。それは、位置情報である。この位置情報の画像データへの付加は、カメラが自分の立つ場所の絶対的な数値、つまり現在一般的な位置情報の規律である緯度経度を知らせるなにかが必要になる。一般的にはそれはGPSである。しかし、残念ながらカメラにGPSがついているものは今のところない。
しかし、別ハードによって取得されたGPSの位置情報のログに、時間がくっついていれば、時間軸をもとに画像の時間軸と一致させることで、その画像の位置情報をexifに書き込むことが出来るのである。
この方法によって膨大になりつつある画像情報のソートが一元的なものから多次元的なものになっていく。
今日、少々の時間が合ったので、iccの「ライトインサイト」を見てきた。iccはもともと好きで、というよりはむしろ、自分の夢を描かせてくれたギャラリーでもあり、時々訪れることにしているのだが、今日は、本当にたまたま行こうと思いついたに過ぎなかった。
久々に動けないほどの感動をした。とにかく立ち尽くすというものではなく、はしゃぎにはしゃいだ。一人で
《You and I, Horizontal》2006年
この作品に出会えたことに本当に感謝している。と同時に、焦りすらも感じた。自分が予想していた以上に、人工物である機械装置はあたらしい知覚を生み出すことが出来そうでもあり、それをすでに実践している人など、山ほどいる。そのことを知ってしまいあせっている。
僕の今立っている場所は本当に正しいのか。少なくとも、様々な活動を知るキッカケにはなっている。