いつかは避けられないテーマだと思っていた。そうgmail。googleについて言及するなど、恐れ多いが、もうこれ以上耐えられないのだ。
ここでは、googleすごいとか、容量がおおいもんね♪なんてどのwebmailでも通用するような話はしない。一応ひとりの研究家として、gmailとhotmailの操作性の違いについて述べたい。
私は、gmailと併用でhotmailも使用している。しかし、相対的にgmailの方が利用頻度が高い。その理由は軽快さに他ならない。両方使った人ならばわかるはずであるが、それにしてもhotmailは遅い。しかし、時間を考えてみると、outlookを起動させる時間と、ほぼ変わらない。つまり、gmailが早すぎるのだ。そう、gmailを使う理由はそれに限る。
あれほどまでにアドレス帳も使いづらければ、フォルダ機能もないものに、なぜ固執してしまうのか。それは、speedに他ならない。ひとつ、とにかく他に劣らないものをもつのは当たり前であるが、その選択が的確なのがgoogle。
macの限局が僕個人としては見えてきてしまった今、gphoneもついつい期待しちゃうのね。
村山知義関係の資料集めの一環で本日、星霜軒という古本屋さんを訪ねた。
まだ店舗は改造中でしたが、店主曰く
「バラックみたいでしょ」
最初その意味が分からず曖昧な微笑を浮かべると、工事現場を見せていただくことに。
話を聞いて驚いた。てっきり工務店の方が工事をされているのかと思いきや、友達なんだよとのこと。工事をされていたのは、本職彫金師の方。それに建具が面白い。色々なところから買い付けてきた扉が置かれていて、それぞれいろんな顔を持っている。
まさに「ブリコラージュ」を実践されている方だった。看板建築に、モダン商店の扉、それに壁は無垢な木材、、、
プログラマー、芸術家、彫刻家等々、建築に携わっているリストに新たに彫金師が加わった。
それにしても、村山知義があんなにアヴァンギャルドで、研究者達も良い意味で時代錯誤であるのに、良い人達ばかり。。
僕も、村山知義研究者として、恥無い人間にならなきゃね
研究室のホームページを任されることになった。正直言えば、今の研究室のホームページがかっこいいので、これを越すことが出来るのか心配。
ただ、シンプルで拡張しやすいものという、サークルでも直面した問題にたたされている。サークルでは結局忙しくてなにも出来なかったなぁ
今、個人的には二つページを任されており、ひとつはとんてもなくカッコいいアドレスまで頂いてしまっているのに、更新怠ってるなぁ。
研究室のページを変えていく中で、相互にいいページを作っていけたらいいな。そこで、自分のページは実験台となるのです。
やぶにらみの暴君を研究室で見てみた。いまこの作品は『王と鳥』として世の中に出ているが、この作品はそのオリジナルである。(今、この映像は貴重らしい。見たい人は言ってください。)
しかし、一概にオリジナルとも言えない作品であるらしい。それは、この作品の成立過程にある。監督であるポールグリモーは、この作品にあまりの年月をかけすぎてしまい、プロデューサーであるアンドレ・サリュによって勝手に決着をつけられ、世に送り出されてしまったらしい。過剰な音の表現も付され。
映画の論評なんて出来ないので書かないけれど。
下層の民衆などの表現が実に生々しく、社会のヒエラルキーが痛々しいほどに表現されている。『王と鳥』では表現が許されたんだろうか??目の見えない登場人物が結構キーパーソンなのだけれど、そうゆうのって差別表現になってしまう世の中だものね。主人公であるwonderbird。彼が、獅子にする演説。そして、立ち上がる獣たち。さぞ、立派な演説なんだろう。けど、英語が聞き取れない。
『王と鳥』を見て、日本語読むかな。
それにしても分からないことばっかの映画だったなぁ。。ネットで色々な解釈を読んだけど、なんとなく間違ってるような印象のものばかり。
解釈だと小説も否定してるけど、原作者否定って如何なものか、、、ネットでも論じられてるけど、作中の中のHALとの対決をどう捕らえるかがポイントになりそうだよね。まぁ語れるほど理解できてないからな。ただ、映画に説明が無さ過ぎて、これじゃ正解へはたどり着けなさそう。でもそれも意図しているとしたら、そうとう観客に投げてる作品だな。ほかのキューブリック作品もみてみよう。
でも、宇宙感みたいなものが既成のものとは違い(むしろこの映画自体古いものなのだから、宇宙の「既成」概念でいえば、この映画は、むしろ古典に当たるのかもしれないが)新たな宇宙感を持った。
ちょっとだけ、ネットで語られていない(かもしれない)ことをひとつ。
最後に行き着く、部屋。これがヴィクトリアンであったことに興味を抱いた。ヴィクトリアンは、自らを規則に縛り付ける。SMの快感だな。他人のヴィクトリアンの強制は地獄。神の裁きを受け地獄に落ちたことの投影なんじゃないかなってね。
ただ、作中のアイテムはどれも自分好みのプラなデザイン
とりあえずパソコンの名前はHAL9000にしました
古い無声映画を見ながら、チャップリンとノッポさんが同時に頭に浮かんだ。ノッポさんが喋ったこと、チャップリンが喋ったことは同義の出来事だろうかというひとつの疑問である。
チャップリンは周知のとおり喜劇王と呼ばれていたが、これも周知のように喋らない。言葉で笑わすのではなく、体で笑わす。当時の技術の問題で、言葉の使用が制限されていたからこそ、体表現が研鑽されていったのだろう。
では、ノッポさんはどうだろう。ノッポさんは僕らがタイムリーで見ていたという事実から分かるように当然声表現は使える状況にあった。それなのに彼が言葉を使わなかったのは、日本人のイメージ、日本人が持っている日本人のイメージからだと考える。ノッポさんは、僕たちに工作を教えてくれる、 つまりは職人だ。「日本の職人たるもの寡黙でなければならない。」そんなイメージがあのノッポさんという偶像を作り出したのだろう。
というわけで、チャップリンとノッポさんは違う。
だって、言いたいことは全部ごん太君が話してくれるもの、、、
チャップリンが話したという事実は、技術の進歩の現れであると同時に、何かが失われた虚脱感をもたらす。