ipadが発売されたけれど、好きゆえに厳しい批判を個人的にはしてるけれど、せっかくだから自分だったらどう使うかなーと夢見てみようと思う。
当然、使い方はパソコンとは違うですよね。それにネットブックのカテゴリーに入るなんて、おかしなことを言ってる人たちもいますが、違うでしょうね。
カテゴリー的にはぁ。。。ノートとペンって感じ(笑)じゃないですかね。僕もネットブックを使っていて、起動だって早いし、ウェブだって気楽にできるし生活が変わりました。それでもいつも持ち歩こうって気にはならないんです。それは、やっぱ広げる、立ち上げるって操作があるからだと思う。だってやっぱり電車でパソコンを広げるためには座ってなきゃ出来ないし、すいてなきゃ広げる気にはなりませんよね。ipadの魅力はそこだと思う。思ったときにすぐネットやスケジュール管理が出来る。今まで、ノートとアルバムとipodとカメラと。。。と持ち歩いていたのがipad一台で済むだけじゃなくて、出来ることの幅も広がる。そう考えると、マルチタスクが使えないぐらい我慢しとけ!って気になります(笑)
それ以上に大事なことは常にネットにつながっていること。結局ipadなんて窓でしか無いわけだから、これだけじゃ使い物にならないでしょう。だーかーら言いたいことは、ハードの発売なんかで騒いでるんじゃダメでしょうと。
やっぱりこのブログのコンセプト、多元的サービスの融合のカタチ♥それにやっぱ期待するなぁ。だんだんipadが額縁に見えてきましたね
この版画が大好きだ。父も趣味の範疇ではあるが版画をやっていて、そんな影響もあるのかもしれない。
この作品の作者は棟方志功。彼の作風は良く知られ、近視のためかもしれないが彫り方にはやはり情熱を感じてします。この「華狩頌」も彼の代表作として、多くの人に感動を与えている…らしい。僕がこの作品を見たのは、青森県立美術館であった。棟方の作品が多く所蔵されている。
胸を張って弓を放つ男。頭をもたげる馬。どれも躍動感があって、それに飛び回る鳥も花も全部画面いっぱいに広がっていていて華やか。花がなんで塊みたいに、つぼみみたいに描かれていて、狩られる!っていう雰囲気だ出てる気がする。すべてが力強いのになんで愛を感じる作品なんだろう。日本人のこれまでの美的感覚と全く真逆のところにある作品だと感じる。
iccで行われる可能世界空間論の内覧会に行ってきた。もちろん代理で(笑)
iccの活動自体に共鳴はしているつもりなので、よく展覧会には行くようにしている。これまで行った中でも今回の展覧会は、かなり先進的なものだったように思う。それは、まだ完成していないという意味で、議論の余地があって面白かった。
ただ、建築のフィールドにいる人間として展覧会を見てしまうと、誤った解釈をしてしまうように感じる。とくに、舘知宏氏の《建築折紙》は特に勘違いしやすい。また、これはある程度完成し、発展性にかけてしまうようにも感じる。
この展覧会の趣旨は、メタバース・プロジェクトの経過報告でしかなくて、メタバースとは何かという事自体を考える段階にしかない。だから、これは応用的なところにまだ落ち着かせてはならず、科学的な分析にとどめておくべきものだと思う。その意味では、柄沢祐輔(からさわゆうすけ)+松山剛士(まつやまたかし) の《中心が移動し続ける都市》が、分析までにとどめているという点で、発展の余地(もちろん建築・都市に還元出来る可能性があるという意味ではなく)があったように思う。
メタバースというもののそもそもの出発点が、”インターネット上に構築される3D仮想空間であるメタバースを利用し、実際の商用展開とは別の展開方法を追求することで、メタバースの新しい可能性を提示することを目的としたプロジェクト。”であるのだから、やはり現実世界への展開ということはあまり考えない方が良いのではないかと学生ながら朧気に感じた。
ふふふ。小生意気な感想だねw でも楽しかったですよ。シンポとか解説を聞かないとと正直分からない。なぜなら、芸術じゃなくて科学だから
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Exploration_in_Possible_Spaces/index_j.html
今日、もののけ姫をやっていた。たまたま。世界観が僕は好きで見てしまうのだが、世界観が好きというだけでなく、その世界が好きなワケで、私は、もののけ姫の世界に住んでみたくなる。贅沢を言えるなら、山犬になりたい。
難解で、私は何故タタラ場が作品上、地侍にあのタイミングで襲われたのかが分からない。もののけ姫の世界の中では、つじつまが合っているには合っているが、アシタカが吐くセリフ「そなたの敵はほかにいるはずだ」という言葉を合わせると、テーマの歯切れがもっと悪い。
考えても分からないから、もう今日は寝ます。
地侍だけシシ神様とは全く接点がない。生きるという実感も無く、タタラの経営権を求めるだけの姿が、今の僕たちにダブって見えてしまうね。
死ね!!。。。。。生きる!!!!!!
深澤直人の作品とそれを撮る写真家藤井保の作品展。
この二人の作品が対比されていることで、深く深澤のプロダクトを理解できたかもしれない。深澤の作品は、ある意味で、絵画に似ている気がすると感じた。昔、デッサンをかじった時に、線で絵を描くなと言われたのが深く印象に残っている。モノはすべて、陰影があるから見えるのだと言われた。影がなければ、ものはつかむことが出来ないのだという。確かに、そうだ。絵画は影で書く、線がない。それは、藤井自信の撮影における注意からも読み取れる。深澤の作品を撮る藤井は、作品の背景にその作品と同じスクリーンを立てる。白い作品には、白いスクリーン。黒い作品には黒いスクリーン。写真のことは良く知らぬが、普通であれな作品を引き立たせるもっと別のスクリーンを持ってきてもいいように思う。例えば、シンプルなものであれば、逆にいろいろな物が置かれた風景におくことも考えられるはずだ。しかし、藤井は作品をスクリーンに溶け込ませてしまっている。彼が、最新の注意を払っているのはその陰影だ。展覧会のポスターを見ても陰影に注意を払っていることがよくわかる。深澤の作品に照明が多いのは、それ自体が光を発することが、唯一の自己主張の方法だからではないだろうかと思う。
(私が森美術館で出会った、人のスライスは、その影の方がむしろ人であった。影には、2次元一色という不自由な性格ゆえに、人に想起させる力を強く持つのかもしれない。これはまた別の話。もっと深く考えようかな。)
しかし、近作では、彼はマテリアルに手を出し始めた。この挑戦は、デザイナーとしてのチャレンジとして咎めることは出来ないが、「深澤」としての挑戦としては、一筋縄ではいかないように思う。現に、2007年の作品には、深澤らしさが全くといっていいほど見えてこない。
ここに書いたことはすべて僕の戯言。ひとりのファンとしての意見であるから適当であることを最後にことわる。
美術館の方にお会いする機会があり、森美術館で行われている「医学と芸術展」を見に行った。各々の展示というよりは、展示作品のセレクション、キュレーションに満足した展覧会であった。科学の粋である医学と、全く対極をなすような存在である美術。その両者を隔てることなく、織りまぜながら展示されている。すると、医療機器が芸術作品に見えてくるというのは、もちろんあるのだが、不思議なことに芸術作品が「死に抗う薬」にも見えてきた。
また衝撃的な作品であったのが、人がスライスされた作品(?)であった。眼前にあるものは確かに死体だ。しかし、それを作品として見ている自分は、その死体をモノとしか見ていない。けれど、その作品から長く伸びた影。それだけはどうしても踏めなかった。影だけは人のカタチ。たぶん生きている人の影とそう変わらないだろう。早稲田大学の機械学科三輪教授は、離れた二つの部屋で、影を共有することで、あたかもそこに人がいる空間を実現した。実感にかけるネットのやり取りに、ネットワークを介してどのようにしたら、より感覚的な動きを取り入れてコミュニケーションを取れるかという実験である。実体がなくても影だけで人の存在を感じさせる、人と影は切り離せるのかもしれない。
とにかく、影が踏めなかったです。ここの作品の芸術鑑賞というよりは、この展覧会すべてが心に訴えかける芸術作品の様であったように思いました。
おすすめですよ
かっこいいな。ただそれだけで取り上げた。
チョイワルでもジローラモさんとは、また別味だね。特にちょっとはにかんで笑う瞬間がおじさまカワユスです って感じだ。