Googleが発表した、新しいサービス。様々な事典や、書籍などから生成された、用語のネットワークをもとに、入力された検索語から派生する言葉を含め、その検索結果の精度をあげるというもの。だれも知りえない関係まで、検索画面のなかに展開されうる可能性ももつ。 もはや、Googleの検索画面は、その対象を十分に表しうる程の精度と情報量をもっている。それは、Googleの全世界の情報をあつめるという思想によるものであろう。ウェブサイトにとどまらず、写真、本、画像、論文、地図、景観と次々に蓄積しているものが、すべて連関するよう仕組まれている。
しかしそれらは、検索語が含まれているか否かという判断により取捨されてきた。このKnowledgeシステムは、検索語から主体的に、予期し得ない新情報を提示してくれる可能性をもつものである。
KnowledgeGraphの情報がヒトによって生み出されたものに基づいているということにのみ、安堵の条件を認めざるを得ない。
http://www.google.com/insidesearch/features/search/knowledge.html
ことしもメディア芸術祭の季節がやってきた。毎年たのしみで見に行くのだが、ことしは展示自体が見やすくなっていた。これまで、音や光などが交錯するよう配置され賑わいが演出されていたように思うが、ことしは各作品の個性を尊重し、壁により個々を隔離することで、大事に展示されていたように思う。
アート部門大賞となった「Que voz feio(醜い声)」には、魅せられた。ひとつのブローチを巡る二人の、相容れない双子の主張を、同時に聞くという行為を強いられる。矛盾するふたつの事柄を、同時に理解しようとすることによる錯覚と同時に、この作品に強く感じるのは、現実ではあり得ない第三者の視点を、わたしたちに提供していることにある。話者に徹底して一方的に語らせることにより、対話者の存在を消し去り、語りの場面では一切の環境も消し去ることで、あたかも我々が直接対面しているような感覚を感じる。身の上話は、話者の人生の勝手な妄想をふくらませる(日系ブラジル人であることも、その妄想を助長させるのだ!)。そして、この話者の真面目な面持ちと、われわれが気づいてしまう矛盾、われわれしか今気付けない矛盾にたいして、なにか知ってしまったという気持ちを持つのである。
しかし、この第三者の視点を持つことが出来るもう一人の人物に、すぐ思い当たる。この話を二人に話し聞かせた人物でもある、母親である。その途端、母親の気持ちを探るようになっていく。その謎が解ける前に、二人の話はおわり部屋の風景となる。そして、数ある二人の差異を見せつけられるように画面は流れるが、唯一共通のものをもつ。それは、二人での写った写真でもない。笑った母のポートレートである。作者のうすら笑いが聞こえるようなきがした。
Amze Emmons.
Empire Buffet. 2008.
ポップな色使いで描かれた塵。スラムのような街がモチーフとされるEmmonsの作品には、未来的な印象を受ける。それはなぜだろうか。そこに描かれるものが、われわれが普段目にしているものばかりであることだけでも、これが発展途上の国における風景というわけではないことを、われわれに伝えてくれる。そして、背景に用いられるシルエットこそ、この絵に生々しさを与えているように思われる。背景に描かれているのは、20階はあろうかと思われるビルである。都市である。近代から現代にかけて、もはや日常風景の中に埋もれてしまっている何気ない風景は、もはやビルの風景である。この絵は、本来何気ない都市の風景を背景とさせた絵であることに気がつく。しかし、われわれが、これは現代のものでは無いと拒絶するのは、そこに描かれているものが脆く、崩れているところにあるだろう。黄色や赤、むさらきといった食べ物が売られている。色彩ゆたかに描かれることで、不純物、自然ではないということに気がつかされる。
Kevin Haas.
190: Exit 280
Haasも同じだ。普段なにげなくみているマクドナルドのシルエットが見て取れる。しかし、それはシルエットでしかない。しかし、それがマクドナルドであることがわかるのは、ハンバーガーが好きだから。好きな人にとってはこの絵はこわい。でも、べつにマックがキライやねんならこの絵は全然怖くない。
くだらないことを言ったが、この二人が描く異様な都市像は、そんなに現実とかけ離れたものではないことも、最後に付記しておく。
http://amzeemmons.com/
http://www.kevinhaas.com/
Amze Emmons and Kevin Haas . Distintegration and Sprawl . Oct. 06–30, 2011
最近、東京のアチラコチラで駅ナカが大ブームである。赤羽の駅ナカに最初降り立ったとき、駅を間違えたかと思ったほどである。そんな駅ナカブームであるが、駅の王様、東京駅の駅ナカGRANSTAには、見事な曲折したエスカレーターが存在する。
本来であれば、もっともっと手前で降り立つことが出来るはずなのであるが、なぜここまで客を、持送式に運ばなければならなかったのだろうか。
設備の都合かとも考えたが、いや、なんとなくそうではない。
調べてみると、このGRANSTAの広場には、面白い歴史が。もともと、待ち合わせ場所として「銀の鈴」なるものが、八重洲中央ホールに設置されていた。これは、広い東京駅構内において探し人と落ち合える様、手作りのハリボテで造られた鈴であったらしい。携帯登場以前の待ち合わせスタイルである。そして、この鈴、なんと4代も子孫を残し、その4代目が、現在八重洲地下口通路、つまりGRANSTAに設置されているのである。
東京駅の歴史について http://www.tokyoinfo.com/guide/histry/index.html
そして、この鈴の設置場所は、まさにこのエスカレーターの延長線上に位置する。つまり、このエスカレーターの曲折、中央口から降りてきた人々を、ゆったりと地下通路に運び、その視線の先にしっかりと鈴を見せる。そんな仕掛けがなされているのだろう。そうだろう。ぜったいにそうだ。
それにしても、東京駅。どんな構内をしているのかと気になり調べてみると下のような感じ。ビルのように基準平面もなく、地下がモグラの巣穴のようになると、これほどまで、地図は描き難いのか。ふぁいと。
上野のガード下に突如としてあらわれる店舗の外装の様子。向いの中央線側からでると、こっちを見ている。その窓が、高さの違いをもっているのは、その奥に階段が設けられているからであろうか。また、その弧にともなって、看板部分の意匠も、ウネっとひとうねり。大胆かつ不敵。
この不敵な笑みをもうちょっと眺めてみよう。そうすると、だんだんと向かいの中央線に対する挑発のようにも見えるのだ。違い窓スタイルとして、挑発型の意匠なのではないかとふと思い込んでみた。
「ほら、中央線さん。あんたは中野をでればまっすぐしか走ることができないじゃないか。」
「いやいや、常磐線。あんたは全長350キロ。わたしは420キロ。自分の長さの程をわきまえてもらいたいものだね。」
「そんなこといったって、中央線。おまえは所詮中央東線じゃないか」
と、聞こえてきそうである。
しかし、3・11以降の日本。常磐線は福島原発によって、いまだ全線復旧の見込みが無い。いまこそ、手をとりあって欲しいとせつに願う。